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先人から受け取った着物文化を100年後も。日本文化との隔たりを越えて【GIFTFULストーリー】
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先人から受け取った着物文化を100年後も。日本文化との隔たりを越えて【GIFTFULストーリー】

2023/10/17 更新
GIFTFULストーリー
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先人から受け取った着物文化を100年後も。日本文化との隔たりを越えて【GIFTFULストーリー】

ゲストが、受け取っていた “ギフト” の存在に想いをはせる「GIFTFULストーリー」。今回は、着物を用いたオリジナルブランド「keniamarilia(ケニアマリリア)」の座波ケニアさんが、ブランドにこめた想いを語ります。

ブラジルから日本へやってきた座波さんは、着物文化に魅入られ「この文化を残したい」という想いで、ブランドを立ち上げました。そんな彼女のまっすぐな想いと生き方に、多くの人の共感が集まったことで、「keniamarilia」を立ち上げることができたといいます。

いったい何が座波さんを突き動かし、着物ブランドを通して何をなそうとしているのでしょうか。

始まりは迷彩柄のスカートづくり

――座波さんの生い立ちについて教えていただけますか?

座波:
私はブラジルのサンパウロに生まれました。父が仕事の都合で日本に来ていたのですが、妹が小さい頃に肺炎で生死をさまよったのをきっかけに、家族みんなで暮らしたいと思った母親が、私と妹を連れて日本へ渡ることになりました。

最初は兵庫県尼崎市にいて、そこから大阪府堺市に移り住み、日本語や日本での暮らしを覚えたんです。

――そんな経緯があったのですね。小さい頃の座波さんは、どんな子どもでした?

座波:
親には「小さい頃も今も何も変わらない!」って言われます(笑)。ものすごく元気で、周りを巻き込む子で、人見知りという言葉を知らない。

日本に来たばかりの私は、自分の世界がすべてだったので、道行く人にポルトガル語で話しかけていました。むしろ、「え、なんで皆ポルトガル語を話せないの!?」ってテンションで(笑)。商店街でもひときわ目立つ存在で、近所の人たちにはすごくかわいがってもらいました。

幼少期の座波さん

堺の人たちは、私たち家族を温かく受け入れてくれましたが、突然お別れしなくてはならなくなりました。小学校2年生の時に、阪神淡路大震災が起きたんです。住む家をなくした私たちは、親戚が暮らしている栃木県へ引っ越し、新たな生活を始めました。

――転々とする幼少期を過ごしたのですね。いつから服に興味を持ち始めたのですか?

座波:
服は小さい頃から好きでした。小さい時から服の絵しか描いていなくて、それを見た母がソーイングセットを買ってきてくれたんです。それを使って、幼稚園児の時にリカちゃん人形の服を作ってみたのが、私の最初の服作りでした。おぼろげな記憶ですが、母がすごくほめてくれましたね。

小学5年生の時には、はじめて自分の服を作りました。その時に作った迷彩柄のスカートは、お世辞にもいい出来栄えではなかったです。作り方がめちゃくちゃで、歩くのもままならなくて。
自前のスカートが嬉しくて、履いて学校へ行ったんですが、妹にはその姿があまりに衝撃的だったみたいで…。今でも、迷彩柄がトラウマになっているらしいです(笑)。

このときに服を作る喜びと、物を作るにはちゃんと勉強しなきゃダメなんだなってことを同時に感じました。

座波さん1

――幼稚園の時も小学生の時も、ご両親は座波さんがやりたいことをストレートに応援してくれていたんですね。

座波:
私が何をしても両親は絶対に否定しないし、私の可能性を微塵も疑わなかったです。両親からはいつも、「子どもを全力でアシストするのが親の使命だ」という想いをひしひしと感じていました。

両親の考えにはブラジルの信仰観が関係していると思います。子供は神から授かった命で、神はその命に必ず才能と使命を与える。託された親はそれがなにかをみつけて伸ばす、という考えがあるのです

私が倍率40倍もある、地元の高校を受けようとした時も、とにかく応援してくれました。
当時は勉強がてんでダメだったので、先生に進路を伝えた時はものすごく驚かれましたが(笑)。でも私は、一度決めたことはテコでも諦めない性格なので、その高校へ行く!という気持ちは譲りませんでした。
両親も、私の性格をよく分かっていたんですよね。つい最近母と話した時も、「どうせあなたは気が済むまでやるだろうから、親としてできるのはアシストするくらいだよね」と話していました(笑)。

ブラジル人が振袖を着たらダメ?

――座波さんと言えば着物のイメージですが、着物に興味を持ったきっかけを教えてください。

座波:
着物自体には、小さい頃からずっと魅了され続けていました。世界を見渡しても、頭のてっぺんからつま先まで柄の組み合わせで、民族衣装が成立している文化はなかなか存在しません。それでいて、半衿や襦袢、帯などあらゆるパーツに一級の職人さんが携わっていて、美術品として愛されています。

しかも、それが先進国の日本で、今でも日常的に着用されているんです。
例えば夏になると多くの人が日常的に浴衣を着ますよね。こういう習慣って外国を見てみるとほとんどないんですよね。
高校を卒業後、服飾の専門学校に通っていた2年間は、ずっと着物について考えていました。

その一方で、私がずけずけと日本の着物文化に関わってもいいのだろうかと葛藤する気持ちもあったんです。

座波さん2

――なぜそう思ったのですか?

座波:
私は、両親からこう言われて育ってきました。
「あなたがどんなに日本語を上手に話せても、日本人のコミュニティになじめるようになっても、日本人にはなれない。そこを勘違いしてはダメだよ」と。

日本に長年住む中で、この言葉のおかげでブラジル人としてのアイデンティティを意識し続けることができましたから、私にとってすごく大事な教えでした。

その一方で、「どれだけ日本を愛していても日本人にはなれない」という距離感を強く感じてしまったんですよね。

――ブラジル人としての自分を大切にするがゆえに、日本文化と無遠慮に関わることを躊躇するようになったのですね。

座波:
転機が訪れたのは、成人式です。

私は振袖を着てみたいと思いつつ、「ブラジル人の私が振袖を着たら、周りは不快な思いをするんじゃないか?」と思っていました。誰に言われたわけでもないのですが、勝手に強くそう思い込んでしまってたんですよね。

そんな私の様子を見ていた友人が、「ケニア!何言ってんの。とりあえず行こう!」と私を車に乗せて、着物屋さんへ。
恐る恐る入店した私を、店員さんは心から歓迎してくれました。
「目鼻立ちが整ってるからこれが似合う!あ、こっちもいいかな?」と、いろいろな着物を持ってきては、試着させてくれたんです。

それがあまりに嬉しくて、、、着付けをしてもらいながら、涙がポロポロと溢れてきました。
あの瞬間、「日本に受け入れてもらえた」「着物文化を愛していいんだ」そんな気がしたんです。

成人式

着物文化の存続という神輿を、私も担ぐ!!

――そこから、どんな経緯を経て「keniamarilia」を立ち上げたのでしょうか。

座波:
アパレル業界でしばらく仕事をした後、フリーランスになった私は、HEAVENESE(ヘブニーズ)というバンドの着物を用いた衣装を担当するようになりました。

2017年、彼らが国際交流基金支援事業のツアーでエチオピアに行くということで、衣装担当として帯同させてもらったんです。

HEAVENESE(ヘブニーズ)

メンバーからは、「着物は海外の人たちからすごく好反応なんだよ」と聞いていました。そして、エチオピアに行ってはじめて、彼らの言葉を目の当たりにしたんです。

「Amazing!!!!!!!!!!!!」

エチオピアの人々は着物を見てそろって感動を表し、他国でも同様の熱狂が起きていました。もちろん彼らのパフォーマンスやメッセージが素晴らしいことが前提ですが、こんなに日本の文化が愛されている、ということに驚きました。

海外の熱狂的反応を見た後、帰りの飛行機でずっと考えていました。

どのメーカーも中国生産を行うようになって、国内の工場はバタバタと廃業続き。
こんなに愛されている着物なのに、伝統的で精緻な技術を持っている着物の作り手は減り続け、現在進行系で着物が作れなくなってきている。
そして一度失った技術は不可逆的で二度と取り戻すことができない。

着物文化が衰退したら、日本の精神や伝統や文化はどうなるのだろう、本当に無くなっていいものなのか?

でも、もし、着物を現代の日常生活上に復活させることができれば着物文化を守れるかもしれない。
「もう国籍云々なんて言っていられない。『着物文化の存続』という神輿を、私も担ぐ!!!」

帰国後すぐに着物ブランドリリースに向けて準備をはじめました。

座波は服作りに集中せよ!

――帰国からブランドリリースまで、どんなことをしていたのですか?

座波:
試作品を作ったり、商品について考えたりしていました。あと、私は服の作り方を知っているけれど売り方は知らなかったので、マーケティングや広告業界の人と知り合って、いろいろ話を聞いていました。

この時に出会ったのが、ジゲン(jigen_1)さんとアナグラム株式会社の阿部圭司さんです。少し時をさかのぼりますが、2015年頃にはGiftXのいいたかさんとも知り合っています。

――まさかのつながりが。

座波:
私は長年、アパレル業界で物作りをしてきたのですが「商品を届けることに長けてる人」への憧れのようなものがあったんですよね。
マーケティングに詳しくなりたいと思い、三人にそれぞれDMを送って、実際に会って相談に乗ってもらいました。

そしたら、3人全員から「座波は絶対服作りに集中した方がいい」と言われたんです。
マーケティングの相談に言ったのに、想定外でしたね(笑)

私にとってものづくりができるのは自然なことだったのですが、三人の言葉を聞いて、ハッと物作りの価値を再認識しました。
そこからは、「本当に良い製品を作ること」に自分の頭のリソースを集中して取り組んでいったんです。

あとは生活費が必要だったので、学生時代に働いていたドラッグストアで、アルバイトをしていました。バイト中は心ここにあらずな状態で。人目を盗んでは、チラシの裏紙に服のデザインを描いていました(笑)。

チラシの裏紙に服のデザイン

そんなある日、店長に声をかけられたんです。

「座波ちゃん、辞めるって選択肢もあるんだよ」

ドラッグストアはずっと働いてきた職場だから、すごく居心地がよかった。でも居心地がいいゆえにその生活に甘んじている自分もいて、いつブランドを始めるか最後の踏ん切りがついていない状況だったんですよね。それが、店長に「辞めてもいいんだよ」って言われて、背中を押されたんです。

keniamarilia、誕生

座波:
ブランドの名前は「keniamarilia」に決めました。私の本名の「座波・ケニア・マリリア」が由来です。「マリリア」は、私の恩人のおばさんの名前でもあります。

実は私は出生が少し複雑で、このとき母をすごくサポートしてくれたのがマリリアおばさんだったんです。それで、私の名前にも「マリリア」をつけようと。

デザイナーになりたいという私のことも、おばさんはずっとブラジルから応援してくれていました。彼女への恩返しの意味を込めて、絶対『マリリア』をブランド名にする、と決めていたんですよね。「keniamarilia」のことをおばさんに報告したら、「これでいつ天国からお迎えがあっても悔いはないわ」というくらい、喜んでくれました。

マリリアおばさん

エチオピア・ドバイ帰国から2年が経過した2019年。精魂を込めた最初の七着が完成し、ついに「keniamarilia」をリリースしました。


――「keniamarilia」をリリースした時の心境は覚えていますか?

座波:
もう、心臓バクバクでしたよ。炎上したらどうしようとか、皆に求められていなかったらどうしようとか。ストアを開設した後はわざと予定を入れて、販売状況を見ないようにしていたくらい(笑)



そのまま用事を済ませて、ドキドキしながらストアページを見て…。「完売」の二文字を見た時は「うわー!!!!」と叫んでしまいました。

最初の商品が完売に

あるお客様からはTwitterで、「私は着物が好きで、『keniamarilia』のようなブランドをずっと待っていました」と言われました。
愛される製品を世に送り出すことができて、ジゲンさんたちがしきりに、「座波は物づくりに集中せよ」と勧めてくれた理由が分かった気がします。
日常の延長線上に着物を復活させる、その第一歩を踏み出せたと感じましたね。

座波さんは本気ですか?

――この時は、まだ一人で商品を作っていたんですよね。

座波:
そうです。その後、徐々にパートナーさんが見つかっていきました。ここで一番大変だったのは、私以外の人が縫っても、商品のクオリティが落ちない仕様書を考えることでした。その上で、工場さんに継続して依頼でき、かつ今の金額を維持する体制を作ることにものすごく苦労しました。

その中で、一番最初に協力してくれることになったのが、山口県にある株式会社ソゥイング杉さんという工場です。杉さんには、スカートや羽織を縫ってもらっています。

「keniamarilia」の商品は一点物で、すべて工程が異なるため、正直工場さんとしてはすごく製造負担が大きいです。それでも、杉さんは今日にいたるまで、ずっと「keniamarilia」の売れ筋商品を作り続けてくれています。

ケニシャツは、奈良にある株式会社ヴァレイさんという工場が手がけてくださっています。社長の谷英希さんに「縫ってほしい」とお願いしたところ、2つ返事で「やりましょう」と受け入れてくださいました。そうやって、徐々に工場さんとのつながりが広がっていったんです。

座波さん3

――座波さんの考えに賛同する工場さんと、少しずつつながりはじめたのですね。

座波:
「keniamarilia」をリリースしてすぐ、新型コロナウイルス感染症が広まって緊急事態宣言が出ました。その時、京都の絵付師の方が、私に連絡をくださったんです。

「座波さんは本気ですか?」

「本気で着物文化を守ろうと思ってくださるのなら、京都に顔を売りに来てください。得意先を紹介します」

そう言われ、すぐに京都へ飛んで多くの作り手の方々を紹介いただきました。

「新品の反物を使って商品を作っていきたい!!!」と皆さんに伝えると、ほとんどの工場さんからは「新品の反物だと今はもう技術的に難しい」と。

想像以上のスピードで着物の生産体制や技術が失われていっている、その現実を改めてつきつけられましたね。絵付師の方はこの現状を知ってほしくて紹介してくださったんだと思います。「この状況になって寿命が10年前倒しになりましたわ」という彼の言葉は今でも忘れられません。

皆さんのお話を聞いて、「今はもうできない技術が多く、再現が難しいなら、今あるものからやるしかない。まずは日常において人々が着物を着るきっかけを作り、需要を創らなくては。」と思い、古着の着物を使うことから始めることにしました。

また、石川県にある小倉織物株式会社さんもご紹介いただきました。日本最後の広幅洋装絹製織工場で、イヴ・サンローランなど世界中の名だたるブランドからも愛されている一流の技術を持った工場です。福井県にある120年の歴史がある東野織物さんも、かれこれ3年ほど絹の裏地を織ってくれています。近い将来、新品の反物を織ることも始められる可能性もでてきています。

こうした出会いも、「着物文化を存続させたい」という私の決意を信じ、想いを共にするたくさんの人たちが、ご縁をつないでくださったおかげです。

先人たちから受け取っていた贈り物

――今伺っただけでも大きな困難が立ちはだかっていると感じました。それでも座波さんを突き動かしているものは一体何なのでしょうか?

座波:
私たちが成人式で着物を着たり、夏に浴衣を着ることができているのは、時代の節目で着物文化を守り、精神を守り、繁栄させてきた先人たちのおかげなんです。

例えば、百貨店・高島屋の前家である飯田家の人々は、日本が横浜を開港した時、西洋向けに「着物のドレス」を反物で作ったとされています。



このドレスは、絵画にも残っているほど西洋で流行したそうです。
邪道と言われようが、時代に合った新しい着物文化を創造し、後世に残す。
痺れませんか?

着物文化から生まれた洋服は、他にもあります。アロハシャツだってそうだし、スカジャンもそう。スカジャンは、着物の下絵に用いられた柿渋の紙がそのまま図案に転用されてます。戦後の何もないときに、外国人へのお土産として何を売ろうか考えた結果、生み出された代物です。

私たちが当たり前のように享受している豊かな文化。それは先人たちからの贈り物なんです。
小倉織物さんは国内でシルクジャカードを織れる最後の1社。
現代の私たちは気づかぬうちに、その大切な贈り物を失い続けています。

着物文化の存続、という使命が私の代で完結することはありません。
それでも、先人たちから受け取ってきた贈り物を、少しでも次世代に渡していきたい。

この使命も、神が私にくれたギフトかもしれませんね。



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